コーチング

自分らしく、徹底的に。

― モヤモヤと挑戦の連続から見つけた、わたしだけの人生のつくり方 ―

はじめに

―「このままでいいのか」と、心のどこかで感じているあなたへ

何者かにならなければいけないと思っていた。
夢を叶えるためには、強くなければいけないと思っていた。
誰かの期待に応え続けることで、自分の存在を証明できると思っていた。

でもそのたびに、心のどこかで「これって本当に、自分が望んだ人生なんだろうか?」という違和感が消えませんでした。

この自叙伝は、そんな“問い”と共に生きてきたひとりの人間の物語です。
華やかな経歴の裏側にある、迷い、葛藤、敗北、そして希望。
きっとあなたの中にもある“まだ言葉になっていない想い”に、どこか重なる部分があるはずです。

人生は、いつからでも、どこからでも、やり直せる。
自分らしさを取り戻す旅に、遅すぎることなんてない。

この物語が、あなた自身の「問い直し」のきっかけになれたら。
そして、今ここから、新しい一歩を踏み出す勇気につながったら。
それほど嬉しいことはありません。

第1章:動きすぎる胎児、言葉に目覚めた幼少期

1990年6月25日、静岡県三島市の病院にて誕生。
生まれた時間は午前2時56分。体重2,982g。
――母曰く、私はお腹の中にいるときからとてもよく動き、出産はとても大変だったそうです。

富士山のふもと、裾野市で育った幼少期。私は、常に何かを見つけては走り回り、触れたがる子どもでした。
好奇心の赴くままに動く姿は、まるで“まだ言葉を持たない探究者”。

3歳から通い始めたECCで、英語を「学んでいる」という意識はありませんでした。
しかし、当時の発音やリズム感が、のちに世界へ飛び出す私の基盤になったと思うと、両親には本当に感謝しています。

父はよく、「英語くらい話せないと、これからは生きていけないぞ」と言いながら、風呂で英語を教えてくれました。
そういった何気ない日常の積み重ねが、私の語学への扉をゆっくり開いてくれたのだと思います。

ただ、元気が有り余っていたせいか、幼稚園に入る前に年上の子たちからいじめられていたようです(当時の記憶はありません)。
きっと、何かしらの「他人と違う」があったのでしょう。

この時、母に言われた(と想像している)言葉があります。
「いじめられたくなかったら、“やめて”って言っていいんだよ」
そのひと言が、私の心の奥深くに残りました。

“現状を変えるには、自分が動かなければいけない”
そして、“変化には痛みが伴っても仕方がない”――。

この信念は、これ以降の人生で私を突き動かす原動力となる一方で、ときに私自身を追い詰める厳しさにもなっていきます。

第2章:秘境の町で得た、雪と涙と努力の記憶

幼稚園を卒園して間もなく、私は新しい土地に引っ越すことになりました。
向かった先は、静岡県清水町。人口約3万人の小さな町でした。

転校生として加わったにも関わらず、すぐに友達ができました。
両親は「貴之のまわりには、昔から自然と人が集まってきていた」と話します。
その言葉を証明するかのように、大人になった今も私はよく道を聞かれます。
新宿で中国人に富士山への行き方を尋ねられたり、マクドナルドでおばあちゃんに突然スマホの操作を聞かれたり、電車の乗り方を6歳の子に聞かれたり。
どんなに人が多い中でも、なぜか私が選ばれる。イヤホンしてるのに。

父は言いました。
「人から声をかけられるというのは、名誉なことだ」
それ以来、誰かに声をかけられたときには、全力で助けることにしています。

小学校に上がり、内気ながらも絵が得意でよく表彰されていた私。
そんなある日、父の転勤が決まります。
行き先は、北海道士別市――日本でも有数の豪雪地帯。まるで“秘境”のような地でした。

2度目の転校。
しかしこの頃から、私は新しい環境への順応力を身につけていきます。
小学校2年生の春、転校して間もないのに合唱コンクールの指揮者に任命されました。
音楽の知識も経験もゼロ、音符すら読めない。
どうして任されたのかは覚えていません。
でも、リズムが取れずに戸惑っている自分の姿だけは、今でも鮮明に思い出せます。

北海道の冬といえば、スキー。
周りの子たちは当たり前のように滑れるなか、私と弟はまったくの初心者。
それを見かねた父が、毎週末、スキー場に連れて行ってくれました。
父もスキーが得意なわけではなかったはず。
それでも、自分で教えるかのように、何度も通ってくれたのです。
おかげで、学校のスキー授業では最上級のAクラスに入れるようになりました。

そして夏には、毎週キャンプ。
涼しい北海道の自然に囲まれて過ごす日々は、好奇心MAXの私にとって、まさに天国のような時間でした。
この時期の思い出は、今でも心のなかで宝石のように輝いています。
改めて、両親に感謝したいです。

そんな北海道で、友人の勧めからサッカーを始めます。
けれど、最初に任されたのはキーパー。
「お前はとりあえずゴールに立ってろ」――上級生にそう言われたのです。
サッカーがやりたいのに、ボールに触れない。そんな悔しさが募るばかり。
その悔しさをエネルギーに、毎日ボールを蹴りました。
豪雪地帯の北海道。吹雪の日も、グラウンドに立って練習を重ねました。

「現状を変えたければ、自分が変わるしかない」
「痛みを伴ってでも、努力をやめてはいけない」
あの時の私は、幼いながらに、そう信じて突き進んでいました。
やがて、ポジションはキーパーからフィールドへ。
自分の力で道を切り開いた瞬間でした。

そして、祖父のことも忘れられません。
成績表をファックスで送るたび、祖父は周囲に「うちの孫はな…」と誇らしげに話していたそうです。
お葬式のとき、「あなたが“すぎさん”自慢の孫なんですね」と、何人もの方に声をかけられました。

小学生の頃の小さな恋の思い出も残っています。
放課後、多目的会議室に呼び出され、一人の女の子から手紙をもらいました。
嬉しいはずなのに、なぜか私は手紙を破って逃げ出してしまった――
人として、男として、最低の行為です。
それでも、あの時の自分を責めるよりも、今の自分がその経験から何を学んだのかを大切にしたい。

そして――
静かに思い始めていました。
「いつか、終わりは来る」
楽しい時間も、別れも、人生の一部なのだと。

次の春、私はまた新たな土地へと向かうことになります。

第3章:かえってきたウルトラマン、はじめてのリーダーという舞台

北海道での暮らしが当たり前になった頃――
小学校4年生の途中で、またもや引っ越しが決まります。
次なる行き先は、静岡。古巣への帰還でした。

最終登校日には、仲の良かった友達が家まで来て、お見送りをしてくれました。
この時の光景は、今でも脳裏に焼き付いています。
「どんなに努力しても、思い出をつくっても、終わりはやってくる」
人生の“有限性”を、幼いながらに感じた瞬間でした。

静岡に戻ると、元々の友人たちが通う小学校に復学。
かつての仲間がそのままいてくれたおかげで、私は「かえってきたウルトラマン」状態。
すぐに溶け込み、むしろ“中心”へとポジションを移していきます。

気がつけば、学級委員長、学年トップ、運動会のチームリーダー、生徒会――
もともと内気だったはずの自分が、前に立って人を導く役割を担うようになっていました。
最初のきっかけは、友達による“悪ふざけ”の推薦だったと思います。
でも、次第にそのポジションが自分の居場所になり、「これは自分の役割なのかもしれない」と思い始めていました。

習い事もフル稼働。
少年団のサッカーチームに加え、地域選抜、エスパルスのサッカースクールと、掛け持ちの日々。
ECCも変わらず続けていて、毎日どこかに通っていた記憶があります。
いま、自分が当時の両親と同じ年齢になってみると、子どもを毎日送り迎えする生活がどれだけ大変だったか、ようやく実感が湧きます。
当時は当たり前だと思っていたその献身に、今は心から感謝しています。

そして――
中学進学を前に、私は大きな夢に挑むことになります。
プロサッカー選手を目指して、名門・ヴェルディのクラブチームのセレクションに挑戦。見事合格。
希望に胸をふくらませて進んだ中学校で、私の価値観は、また少しずつ変わっていくことになります。

第4章:“普通”になりたかったリーダーの転落と再出発

中学に入る頃、私は変わり始めていました。
それまで「前に立って導く役」が自分のスタイルだったはずが、なぜかその姿勢に違和感を覚えるようになっていったのです。

「優等生って、ダサいかも」
思春期という名の揺れが、私の内側を静かに侵食していきました。

学級委員も、生徒会も、やっている。
けれどクラスでは“ちょっと悪い奴ら”とつるみ、教室で本気の鬼ごっこをしたり、変なあだ名をつけては騒いだり。
今思えば、何の意味もない行動。でもその時の私は、「普通でいたい」と本気で願っていたのです。

でも、“普通”になるって、なんだったのだろう。

サッカーでも同じような迷いがありました。
地域選抜に選ばれていた小学生時代とは違い、中学のクラブチームでは自分よりも遥かに上手い選手が山ほどいた。
試合にはなかなか出られず、気づけばベンチが定位置に。
あれだけ好きだったサッカーが、少しずつ、遠ざかっていきました。

試合に出られない自分のために、平日1時間かけて送り迎えをしてくれる両親。
その姿が、ありがたくも、どこか申し訳なく、やがて“プレッシャー”に変わっていきました。

「お腹、痛いな」
サッカーのある日には、なぜか身体が反応していた。
心のどこかで、辞めたかったのです。

中学2年のある日、私は学ラン姿で練習場に向かいました。
「…辞めさせてください」
そう言った瞬間、肩の荷がストンと落ちたのを覚えています。

これが、私の“人生初の挫折”でした。

その後、私は“普通の中学生”になろうと決めます。
サッカー部に入り、仲間と同じ部活をして、授業を受けて、恋をして――
けれど、その“普通”すらも、私にはどこか合わなかった。

サッカー部ではスタメンを勝ち取った。
しかし、そのせいでベンチに下がったのは、親友だった。
「迫害された」――そう彼に言われた言葉が、心に刺さった。

この頃から、私は「自分はどこか“異物”なのかもしれない」という感覚を持ち始めます。
どんなに周囲と同じように振る舞っても、どこかでズレてしまう。
混ざれない、溶け込めない。
自分だけが浮いている気がして、なんとも言えない孤独を感じていました。

でも、それでも私は「普通」を装い続けた。
“普通であること”にしがみつきながら。

そして、次に待っていたのは――人生を揺るがす、“骨折”というアクシデントでした。

第5章:高校受験と“骨折事件” 〜人生を変えた分度器と左手

受験が迫る冬。
私は毎日、休み時間を削って勉強していました。
第一志望の進学校合格に向けて、集中力を高める日々――
そんなある日の昼休み、友人に誘われて「ちょっとだけ」と鬼ごっこに参加しました。
部活を引退してから久々の全力疾走。
チャイムが鳴り、慌てて教室に戻ろうと走ったその時、花壇につまづきました。

ガクン――手首に、走ったことのない痛み。
脂汗が止まらず、救急車で搬送。
診断は、左手首の骨折。

「まさかこのタイミングで…」
センター試験を目前にして、私はギプス姿で受験に臨むことになりました。
左手でギプスを吊り下げた状態で、学ランのボタンを全開にして試験を受ける。
なかなかに異様な光景だったと思います。

母のアイディアで、試験中に文鎮を持ち込ませてもらい、なんとか答案を書き切りました。
一番困ったのは分度器を使う問題。聞き手じゃない方の手が、こんなにも重要だとは思いもしなかった。

結果――無事、第一志望の進学校に合格。
“左手の奮闘”が勝ち取った合格でもありました。

のちにこの骨折事件は、私の中学で伝説のように語り継がれることになります。
2歳下の弟が受験する際も、先生たちは全校生徒に向けて「直前にケガしないように」と注意喚起。
弟からは「それ、俺の兄です」と報告を受けました。

弟よ、ごめん。でも、それで君が無事に進学できたなら、兄として少しは役に立てたかもしれない。笑

この出来事が教えてくれたのは、ただの「運の悪さ」ではありませんでした。
不運な状況に置かれても、自分の頭で工夫し、目の前の課題をどう乗り越えるか。
“与えられた状況の中で、どう戦うか”を学んだ経験だったのです。

そして、この先の人生でも、私は何度も“ギプスをつけながら走る”ような場面に直面していくことになります。

第6章:“普通”になれなかった高校時代 〜 剣道とサッカー、そして自分探し

進学先は、元女子校だった進学校。
私が入学した年、3年生は全員女子――まるで異国に迷い込んだような感覚でした。

中学時代に抱いた「普通になりたい」という気持ちは、まだどこかにくすぶっていて、私は“高校ダウングレード計画”をスタートさせます。
髪型をダサくし、メガネをかけ、部活はサッカーではなく剣道部を選びました。
(ちなみに動機は、当時ハマっていた『六三四の剣』という漫画に影響されたからです)

自己紹介では「趣味は寝ること」と言い、なるべく暗く地味な印象を作ろうとしていました。
今振り返れば、それは“普通”というより、“異質”そのもの。
本来の自分を抑え込むほど、ますます浮いていく――そんな違和感に、次第に気づきはじめました。

結局、剣道部は半年ほどで辞めました。
両親に買ってもらったばかりの防具。
申し訳なさと自己嫌悪の入り混じった気持ちで、何も言えませんでした。

けれど、心の底では、やっぱりサッカーが恋しかった。
1週間、剣道部を“体調不良"と称して休み続け、サッカー部の練習をただじっと見つめる日々。
そして、ある日――
「どうしても入りたいです」と部活の先生に直談判し、途中からサッカー部に加入させてもらいました。

やっぱり、ここだ。
プレースタイルも、空気感も、自分の呼吸にぴったりだった。
サッカーのある日常が、また戻ってきた感覚。

しかしその一方で、家庭では徐々に空気が変わっていきます。
詳細は割愛しますが、この頃から家族の会話が極端に減り、家に帰るのが嫌になりました。
学校でも、家でも、息が詰まるような感覚。
まるで、小さな箱に押し込められて、どこへ行っても蓋をされているような。

「この環境を変えなければ」
「変えられるのは、自分しかいない」
またしても、あの“原点の信念”が顔を出します。

ただ、その思考は時として「本当の気持ちを語ってはいけない」という鎧にもなりました。
否定されるのが怖いから、実現可能性が低いうちは、目標は語らない。
心の奥底に、自分の「本音」をしまい込む癖が、静かに形成されていったのです。

そんな高校3年生のとき、人生初の海外体験――オーストラリア修学旅行に向かいます。
世界はまだ見ぬ憧れの場所だった。
けれど、ここで私は再び、ある“惨めな感情”と向き合うことになります。

第7章:オーストラリアでの挫折と誓い 〜“英語が話せない自分”との出会い

高校3年生、人生初の海外――行き先はオーストラリア。
教科書の中にしか存在しなかった「英語の世界」が、目の前に広がった瞬間でした。
飛び交う英語、異国の空気、人々の表情……すべてがリアルで、そして刺激的でした。

現地の高校を訪問し、文化交流として「紙相撲」を一緒に楽しむプログラムがありました。
私はクラス代表として、拙い英語でその遊びのルールを説明しようと、教壇に立ちました。

しかし――
伝わらない。まったく、何一つ。

教室の空気が一瞬で凍りついたような、あの沈黙。
すると後方から、Y君が前に出てきて、流暢な英語で説明を代わってくれました。
彼は北欧帰りの帰国子女。彼の説明に現地の生徒たちは納得し、ようやく紙相撲の時間が始まったのです。

その場は楽しく終わりました。
…私を除いて。

私は、ただただ悔しかった。
心の底から、自分が惨めで仕方なかった。
「英語が話せない」――それだけのことで、自分がその場にいないような感覚になったのです。

帰国の飛行機の中。
窓の外の暗い空を見ながら、何度も、何度も自分に誓いました。
「絶対に、英語が話せるようになってやる」

これが、私の「語学との本格的な向き合い」の始まりでした。

部活を引退し、進路を決める時期。
私は迷わず、留学制度の整った大学を志望しました。
できれば東京ではなく、地方。
なぜなら、地元の多くは東京の大学に進学し、実家から通う人も多かったから。
“新しいコミュニティで一人暮らし”をして、自分を鍛え直したかったのです。

国公立を志していたものの、センター試験で痛恨の失敗。
結果、センター利用で合格した私立大学へ進学することになります。

「学歴」の意味も、「大学選び」の戦略も、当時の自分にはよくわかっていませんでした。
今なら、もっと選択肢を広げただろう。
もしかすると、海外大学という選択も視野に入れていたかもしれません。

けれど、この経験が私に一つの確信をくれました。
「人は、知らない選択肢は選べない」
だからこそ、“視野を広げること”は、未来を切り開く第一歩なのだと。

この決意を胸に、私は次のステージ――カナダへの交換留学を目指して動き出すことになります。

第8章:カナダでの挑戦と屈辱 〜 語学学校から始まった逆転劇

大学3年生の時、念願の留学が叶った。
行き先はカナダ・ハリファックス。カナダの中でも特に田舎で、時間がゆったりと流れる小さな海辺の町だった。

とはいえ、その夢の舞台に立つまでの道のりは、楽なものではなかった。
留学費用を捻出するため、大学の授業と並行してバイトに明け暮れた日々。気づけばTOEFLの準備がまったくできていなかった。
その結果、大学の正規授業を受けるにはスコアが足りず、まずは現地大学の語学学校に通うことになった。

現地でのクラス分けテスト。
筆記も面接も意外とうまくいったようで、結果は上から2番目の「レベル5」。全体で6段階ある中では、かなり上位だ。
「思ったより、いけるかもしれない」
そう期待して臨んだ初日の授業で、私は地獄を見ることになる。

みんな、何を言っているのかまったくわからない。

英語を「読む」ことはできた。でも「聞く」も「話す」も、まるで別次元だった。
授業が進むにつれて、どんどん置いていかれる感覚。
そして、ある授業で事件は起きた。

先生が軽妙なジョークを飛ばし、教室中がどっと笑いに包まれた。
なのに、私は――笑えなかった。
何が面白かったのかもわからず、ただ取り残されたように黙っていた。
笑っていないのは、教室で私だけ。
その孤独感と悔しさが、静かに、でも鋭く胸を刺した。

「このままだと、何も学べない」

私は意を決して先生にお願いし、レベルを一つ下げてもらうことにした。
自分のレベルが通用しなかったという事実を突きつけられたことが、何よりも悔しかった。
でも、そこからだった。私の逆転劇は。

語学学校での生活は、私にとって“人生で最も燃えた学びの時間”だった。
毎日の課題に全力で取り組み、プレゼンテーションの練習では何度も鏡の前で自分の英語を口に出し続けた。
間違えることを恐れていた自分が、気づけば間違えても前に出ることを恐れなくなっていた。

半年が経つ頃、私は最上位クラスの「レベル6」に到達していた。

そして、語学学校の修了式。
クラスを代表して、私はスピーチを任されることになった。
原稿を何度も書き直し、先生からダメ出しをもらっては練習を繰り返した。
壇上で話す瞬間、少しだけ手が震えた。
でも、声はしっかりと前に出ていた。

会場には、あのとき笑えなかった私も、確かにいた。
でも今は、誰よりも胸を張っていた。

この経験が教えてくれたのは、「悔しさ」は、人生を動かす最も強い燃料になり得るということだった。
分が惨めだと感じた瞬間こそ、自分の未来を変える“入り口”なのだと、カナダの空の下で私は初めて知った。

第9章:中国語への恋と挑戦 〜 “日本人じゃない”と言われた日のこと

カナダでの留学生活の中で、もうひとつ、大きな転機が訪れた。
それは、中国語との出会いだった。

もともと私は、中国に対してあまり良いイメージを持っていなかった。
テレビやネットの情報を鵜呑みにして、「なんとなく怖い」「なんとなくマナーが悪い」と、根拠もない偏見を抱いていた。
でも、実際にカナダに来て、中国人の留学生たちと接するようになると、その印象は見事にひっくり返された。

彼らは礼儀正しく、仲間思いで、何より努力家だった。
学業の合間にも家族に電話をかけ、異国の地で必死に勉強し、時に自分よりもずっと早いスピードで成果を出していく。
「この人たち、すごいな……」
気がつけば、私は彼らに強く惹かれていた。

そしてある日、北京から来た中国人の友人が言った。
「Taka、私が帰国するまでに中国語を話せるようにしてあげるよ」

それは、私にとって思いがけないギフトだった。

その日から、ほぼ毎日、彼女とマンツーマンで中国語のレッスンが始まった。
土日も関係なく、真冬の図書館で発音練習を繰り返す日々。
彼女は二胡の演奏者であり、同じ大学で金融を学ぶ才女だった。
その指導は驚くほど丁寧で、そして容赦なかった。

「tā」と「tà」の違いが聞き取れない私に、何度も何度も、口の動きから舌の位置まで矯正してくれる。
「今の“我”は“我”じゃない」と言われて、50回以上言い直したこともある。
でも、その時間が、たまらなく楽しかった。

気づけば、夕食以外の時間はすべて中国語。
英語よりもむしろ、心が向いていた。

ある日、中国人の友人に誘われて、中秋節のイベントに参加した。
参加者のほとんどが中国人で、私はただ一人の日本人。
レストランで交わされる会話のほとんどがわからず、笑顔で相づちを打つのが精一杯だった。

帰り際、ひとりの女性が言った。
「あなた、日本人だったの?てっきり無口な中国人だと思ってたわ」

……嬉しいような、悔しいような。
けれど、その言葉が私の中に火をつけた。

「いつか、ちゃんと中国語で議論がしたい」
「言葉で人とつながりたい」

中国に対するその思いは、まるで恋のようだった。
語学の習得というより、人と人を結ぶ“橋”をつくる感覚。

帰国までに、日常会話はなんとか6割ほどわかるようになっていた。
もっと深く、もっと遠くへ行きたい。
中国語は、そんな私の“次の扉”になっていった。

第10章:帰国後の焦燥と反動 〜 “失っていく感覚”との闘い

カナダでの留学を終え、日本に戻った。
あれほど願い、手に入れた語学と異文化の世界。
でも、日常に戻った私は、急激に何かを“失っていく感覚”に襲われていた。

日本の空気は、静かだった。
カナダでは毎日誰かと英語か中国語で会話していたのに、帰国後は一日誰とも言葉を交わさない日すらあった。
何より、自分の中に築き上げた語学の“感覚”が、音もなく削れていくのがわかった。

「このまま、全部消えてしまうのではないか」
焦燥感が、胸を締めつけた。

その想いを原動力に、帰国から1年足らずで私は中国政府公認の中国語試験・最上位級を取得した。
とにかく失いたくなかった。
せっかく積み重ねたものを、自分の手で守りたかった。

その一方で、いよいよ就職活動が始まる。
私の中には迷いはなかった。
――行きたいのは、中国。
私に中国語を教えてくれた友人たちに、何か恩返しがしたかった。
そして彼らと同じように、世界で戦いたかった。

香港のエネルギー企業の選考に進み、ついに最終面接へ。
「面接は現地で。香港に来てください」
夢に一歩手が届く、そんなタイミングで、母の声が響いた。

「中国もいいけど、日本の企業で海外に行ける会社に就職したら?」

あの時、私は何を思ったのだろう。
自分の信念が揺らいだわけではない。
ただ、大学まで通わせてもらった親を、悲しませたくなかった。

就職活動の波はすでに終わりかけていた。
それでも、私は海外勤務の可能性が高い日本企業に応募し、5月にようやく内定を得た。
電話口でその知らせを聞いた瞬間、私は文字通り、飛び跳ねた。

「これで、海外で働ける」
そう信じて疑わなかった。

その頃、もうひとつの冒険を決行する。
バックパックひとつで東南アジア4カ国――ベトナム、ラオス、カンボジア、タイを2週間かけて一人旅した。

その旅の始まりは、皮肉にも「中国」での洗礼だった。

トランジットで4時間だけ上海に降り立ち、テンションが上がって街へ繰り出す。
南京西路の繁華街で、現地の若者2人に声をかけられた。
「お茶しない?」――二つ返事でついていく。

案内されたのは茶室。いくつものお茶を飲ませてもらい、「そろそろ行かなきゃ」と伝えると、請求されたのは日本円で5万円超。
そう、典型的な“ぼったくり”だった。

そのときは相場感もなく、言われるがままATMでお金を引き出して支払った。
しばらくして、あれは詐欺だったと気づいた時、私は自分が信じていた「憧れの中国」に裏切られたような気持ちになった。

それでも、不思議と中国が嫌いにはならなかった。
むしろ、「もっと知りたい」という気持ちが、かすかに強まっていた。

語学も、人も、文化も。
私はやっぱり、世界とつながっていたかったのだ。

第11章:社会人としての第一歩 〜 海外への想いと現実のギャップ

社会人としてのスタートは、希望に満ちていた。
私は、海外勤務の可能性が最も高いといわれる部署を第一志望として伝え、内定を受けた企業に入社した。
「いつか、いや、できれば早く海外で働きたい」――その思いは、何よりも強かった。

配属面談の時、私は少しでもチャンスを近づけようと、希望部署の課長に名刺をもらい、何度もメールを送った。
「なぜ私はこの部署に行きたいのか」
「この部署でどんな価値を発揮できるか」
今思えば、拙くて必死な文章だったと思う。
それでもその課長は、ひとつひとつの質問に丁寧に答えてくれた。

そして――
私は本当に、その部署に配属されることになった。
あの電話が鳴った瞬間、心が震えたのを覚えている。
「やった、ここから夢が始まる」
そう思っていた。

けれど、現実はそう甘くなかった。

海外勤務を夢見て入社した私の目の前に、海外の“か”の字も見えてこない日々が続いた。
英語を使う場面は少なく、日々の業務はひたすら国内の案件対応。
気づけば1年、そして2年。
自分が「世界に出るために入社した」という事実が、だんだん色あせていく感覚。

心のどこかで、「こんなはずじゃなかった」と思い始めていた。

そんなある夜、車の中で父に電話をかけた。
「……会社を辞めようと思ってる」
静かに、でもはっきりと伝えた。
すると父は、少しの沈黙のあと、こう言ってくれた。

「お前の人生だ。どこで働いていようと、自慢の息子だよ」

言葉が、胸に刺さった。
私はこの時、大人になってから初めて父に“肯定”されたような気がした。
そして同時に、自分の人生を自分で選んでいいのだと、心のどこかで許可が下りた瞬間でもあった。

その頃、もうひとつ、大きなできごとがあった。

ある晩、仕事中に何度も携帯が鳴っていた。
でも、社会人1年目だった私は「会食中に電話に出るなんて」と出ることをためらい、会が終わるまでスマホを開かなかった。

23時過ぎ。
画面に浮かんだのは、母からの短いメッセージ。

「おじいちゃんが亡くなりました」

祖父母のことが大好きだった私にとって、その知らせは、言葉にならないほどショックだった。
しかも、自分が会食なんかを優先して、最後の連絡に出られなかったという後悔が、あとからあとから押し寄せてくる。

今でも思う。
あのとき、母はどんな気持ちで、私に電話をかけてきたのだろう。
自分の中に「仕事優先」という無言の価値観が根を張っていたことを、心から悔やんだ。

このできごとをきっかけに、私は考え始める。
「もっと、自分で時間を選べる働き方がしたい」
「大切な人との時間を、自分で守れるようになりたい」

そう思ったのは、この時が初めてだったかもしれない。

海外で働きたいという夢と、もっと根本的な「自由な働き方をしたい」という感情が、少しずつ重なり始めていた。

第12章:晒された日常と心の崩壊 〜 噂と悪意に押しつぶされそうになった日々

社会人としての歩みが少しずつ安定し始めた頃――
私は、人生で最も暗いトンネルをくぐることになる。

きっかけは、当時お付き合いしていた方の存在だった。
彼女は芸能に近い業界で活躍していて、私は彼女が“有名人”であることを付き合ってから知った。

当初は、ふたりの関係を外に出さないように工夫していた。
並んで歩かない、外では会わない、人前では距離を保つ。
それでも、ある日その関係が一部の熱狂的なファンに知られてしまった。

彼女に対する中傷が始まり、やがてその矛先は私にも向けられるようになった。
最初はネット上の書き込み。
やがて私の名前、住所、勤め先――あらゆる個人情報が無断で晒されていった。

根拠のない噂。
「中国人スパイ」「彼女を利用している」など、現実離れした中傷が並ぶ掲示板。
最初はただ怖かった。
でも、それが職場にも波及し始めた時、恐怖は“現実”に変わった。

会社に不審な電話がかかるようになり、家の前には見知らぬ車が停まるようになった。
部署の人や同期たちの間でも、私の名前が“噂の人”として広がっていた。

挨拶をしても、誰も目を合わせてくれない。
すれ違いざまにヒソヒソと話される気配。
「最近、名前聞くよね」と電話越しに言われたあの一言は、今も忘れられない。

会社に行くのが怖くなった。
電車に乗るだけで吐き気がして、資料に目を通しても全く頭に入らない。
心と体の境界が、音もなく壊れていった。

警察にも相談した。
でも、「実被害がない限り動けない」と告げられた。
“刃物で襲われてからでないと守れない”という現実に、さらに絶望した。

そして――
身体に異変が現れた。
原因不明の腫瘍が見つかり、緊急入院。摘出手術。

医師の「もう少し遅かったら危なかったかもしれませんね」という言葉に、全身の力が抜けた。
これまでずっと「健康」が当たり前だった。
でも、その当たり前は、当たり前じゃなかった。

入院中、病室の天井を見つめながら、何度も問い続けた。
「自分は、生きていて良いのか?」
「このまま、消えてしまいたい」――そんな感覚が、日に日に強くなっていった。

それでも、会社では何もないふりをして働いた。
“弱っている自分”を見せるのが怖かった。
認めた瞬間、すべてが崩れてしまいそうだった。

この時期のことは、正直あまり覚えていない。
ただ、心が限界まですり減っていたことだけは、はっきりと覚えている。

そんなある日。
全てが真っ暗に思えたその瞬間に、突然、光が差し込んだ。

「森川くん、来年からドイツでよろしく」

部長からの突然の言葉。
それは、私がずっと願っていた“海外勤務”の知らせだった。

第13章:ドイツ駐在で見えた新しい世界 〜 働き方と人生観の再構築

その知らせは、まるで救命ボートのようだった。
社会人2年目、あらゆる意味で心が崩れかけていた私に、突然部長から告げられたのは――
「来年から、ドイツ勤務だ」というひと言だった。

入社5年目以内の社員を、アメリカとドイツに1人ずつ派遣する若手海外研修制度。
そのドイツ枠に、私が選ばれたのだ。
しかも入社3年目、当時の会社で最年少だった。

夢にまで見た「海外で働く」という機会が、ようやく現実になった。

飛行機の窓から見下ろしたドイツの街並みは、灰色の空の下に整然と広がっていた。
その景色を眺めながら、私は静かに誓った。
「この国で、必ず成果を出す。自分を取り戻すんだ」と。


ドイツでの生活は、すべてが新鮮だった。
まず驚いたのは、働き方そのものだった。

現地のドイツ人たちは、17時になればきっちり仕事を終えて家に帰る。
夜は家族との時間、というのが徹底されていて、飲み会文化もない。
家庭と仕事はきっぱり分けられ、効率の良さとオンオフの切り替えが、文化として根づいていた。

一方、私たち日本人の駐在チームはどうかというと――
17時を過ぎてからが“本番”のように仕事が詰め込まれ、夜遅くまで働き、そのあとで飲みに行くことすら珍しくなかった。
小さな子どもを抱えている同僚も多かったが、それでも夜中まで働き続けていた。

ある日、スウェーデン出張の帰りに、ドイツ人の上司からふと聞かれた。

「森川さん、なんで日本人はいつもこんなに遅くまで働いてるの?
子どもと過ごせる時間なんて限られてるのに、どうして?」

私は答えられなかった。

“それが当たり前だから”という言葉しか、頭に浮かばなかった。
でもその瞬間、自分の中で何かが崩れ落ちた。
「働くとは何か」「生きるとは何か」という問いが、じわじわと浮かび上がってきた。


そしてもうひとつ、向き合わされたのは英語だった。

TOEIC860点。
読み書きには自信があったし、3歳からECCにも通っていた。
日常会話もある程度はこなせる――そう思っていた。
でも、“仕事で英語を使う”というのは、まったく別の次元だった。

言いたいことを伝えるだけでは足りない。
伝え方のニュアンス、相手の文化的な背景、話すタイミング――
すべてが“仕事の成果”に直結する。
言語は、もはや「ツール」ではなく「信頼そのもの」だった。

「英語では現地の人に敵わないから、日本との調整で価値を出す」
そう言って、自らを限定してしまう日本人駐在者もいた。
けれど、私はそれがどうしても嫌だった。
“異邦人”として仕事をするのではなく、国籍に関係なく同じ土俵で戦いたい
その思いが、私を突き動かしていた。


TOEICで900点を越えよう。
そう決めて、ドイツでの生活の中に“受験勉強”を組み込んだ。

平日の飲み会は断り、休暇も旅行ではなく図書館へ。
ドイツ国内ではTOEICがマイナーだったため、わざわざ試験官を呼んでもらい、会場を確保する必要があった。
受験料は2万円を超えたが、会社と交渉して経費として認めてもらった。

何度も何度も受け続けた。
850 → 895 → 885 → 895……
900点の壁は高く、あと少しが届かなかった。

ある日、会社の同僚が言った。
「900点取っても、何も変わらないよ」

その言葉に、静かに火がついた。
「見返してやる」――その一心で、さらに勉強を続けた。

そして、ついに――
試験センターから電話が入る。

「たか、900超えたよ。おめでとう!」

届いたスコアシートには、「925」の文字が躍っていた。

鏡に貼っていた紙には、こう書いてあった。
「TOEIC960持っている自分は、外資系企業に勤め、年収700万を超えている」

スコアはまだ届かなかったけれど、気がつけば、そのほかの夢は手の中に入りはじめていた。


ドイツでの1年は、私の人生観を根底から変えてくれた。
“働き方は選べる”
“信頼は国籍じゃなく、行動で築く”
そして何より――
「生き方は、自分で設計できる」

そう確信した1年間だった。

第14章:MBAとの出会い 〜 世界を学ぶ、その先へ

ドイツでの駐在生活が後半に差しかかったある朝、私はいつものように「Morgen」と挨拶しながら、社内のカフェスペースに入った。
そこにいたのは、現地オフィスのトップ――フランス人のマネージングディレクターだった。

「森川さん、最近どう?」

軽く投げかけられたその問いに、私はなんとなく「順調ですよ」と返した。
たった5分の会話だった。
けれど、その中で彼が何気なく語ったひとつの言葉が、私の未来を大きく変えることになる。

「僕はイギリスでMBAを取ったんだ。あれが人生の転機だったね。」

MBA。
Master of Business Administration。経営学修士。

当時の私はその言葉を知ってはいたものの、自分とは遠い世界の話だと思っていた。
でも、その瞬間から、私はネットで「MBA 留学」と検索しはじめていた。


調べれば調べるほど、自分の中でその存在が現実味を帯びてくる。
世界中から優秀な人たちが集まり、議論し、刺激し合う。
卒業後はグローバルに活躍する人材として羽ばたく――
それは、私がずっと憧れていた「世界で戦う」ことの、もうひとつの形に思えた。

自然と、次に目指す場所が見えてきた。
行きたいのは、中国のMBA。
理由は、カナダで出会った中国人の仲間たちと、もう一度、同じ言語で、同じ土俵で語り合いたかったから。
そして、彼らのような優秀な人たちと、切磋琢磨しながら本気でビジネスを学びたかった。

ただし、現実は甘くなかった。

中国のMBAに入学するには、TOEFLやGMATといった高難度の試験を突破する必要があった。
さらに、ネイティブの英語話者でも苦戦するような内容がずらりと並ぶ。
数学も、英語も、思考力も、すべてが試される。
私は文系出身。最初にテキストを開いた瞬間、「これは無理だ」と思った。

でも、不思議とやめようとは思わなかった。


帰国後、私は都内にあるMBA留学支援塾に通い始めた。
授業が終わればそのまま自習室へ行き、夜遅くまで問題集と向き合う。
通勤電車でも、昼休みでも、単語帳とノートは手放さなかった。

誰にも言えなかった。
会社にはもちろん、友人にも、両親にも。
“まだ話せる段階じゃない”
“失敗したら、どうせ笑われる”

あの高校時代に根づいた「本当に叶えたい夢は、人に話してはいけない」という癖が、また顔を出していた。

土日は「遊んでる」と言っていた。
でも実際は、図書館にこもって勉強漬け。
そんな日々を、1年近く続けた。

結果は、思うようにいかなかった。

試験の点数は伸び悩み、出願には到底届かないライン。
心は折れかけていた。
そんなとき、思いがけず憧れていた外資企業からオファーが届く。

迷った末、私はその道を選んだ。
MBAの夢を完全に手放したわけではなかった。
でもそのときは、「今はその時じゃない」と感じたのだ。


転職先は、グローバルな環境が広がっていた。
外国人社員も多く、日常的に英語を使い、視座の高い仲間とともに働く。
入社してすぐ、「この場所に来てよかった」と心から思えた。
前職で感じていた息苦しさは、そこにはなかった。

それでも、時間が経つにつれて、またあの“声”が聞こえ始める。

「お前は本当に、このままでいいのか?」

“世界に出たい”“中国に住みたい”“MBAを学びたい”――
心の奥底にしまい込んでいた夢が、再び、静かに動き出していた。

私は、また準備を始める。
夢に、もう一度、手を伸ばすために。

第15章:再起の決意 〜 夢に、もう一度手を伸ばす

「今行動しなければ、きっと将来後悔する」
その声は、胸の奥のどこかから確かに聞こえていた。

転職してから1年。
仕事は順調だった。
やりがいもあり、評価もされ、人にも恵まれていた。
けれど――どんなに満たされていても、心の片隅にいつも“問い”が居座っていた。

「本当にこのままでいいのか?」

45歳の自分が、今の自分を見たときに、どう思うだろう。
今、ここで立ち止まったままなら、あの時の“海外で学びたい”という思いは、どこへ行ってしまうのか。

そう思った私は、もう一度、勉強を始めた。

平日の朝と夜はTOEFLとGMAT。
土日はエッセイと面接対策。
昼間は本業のコンサル業務をこなしながら、合間を縫って参考書を開き、通勤電車でも片手に単語帳。
忙しいなんて言っていられなかった。
焦りにも似た「今やらなくてはならない」という切迫感だけが、自分を突き動かしていた。

並行して、お金の準備も進めた。
留学には数百万円の費用がかかる。
貯金だけでは足りない。
私は両親に頭を下げ、200万円を借りる決意をした。

ちょうどその頃、両親はアメリカのアリゾナに駐在していた。
とはいえ、気持ちの根は昔ながらの日本人だ。
「なんでせっかくいい会社にいるのに辞めるの?」
「今さら学生? 生活できるの?」
「しかもなんで中国? 危ないよ」
そんな言葉が飛んできた。

私はアメリカに飛び、丁寧に説明した。
いくら必要で、なぜ中国なのか。
どんなキャリアを描いていて、それが将来どうつながるのか。
プレゼンのような会話だった。

最終的に両親は首を縦には振らなかった。
でも、こう言った。

「どうせお前は何を言ってもやるんだろうな」

それは、ある種の“信頼”だった。
自分の人生を、自分で責任を持って選ぶこと。
そうしてきた息子への、無言の応援だった。


いよいよ出願の時期が迫る。

中国の名門MBAプログラムに絞り、私は自分の履歴書とエッセイをまとめ上げた。
書類だけではなく、アドミッション(入学審査官)に直接会うためのイベントにも参加し、英語と中国語を織り交ぜながら自分の魅力を伝えた。

結果的に、現地のアドミッションと親しくなり、1stラウンドでの早期出願に挑戦することに。

出願条件はギリギリだった。
英語のスコアも、GMATの点数も、ボーダーすれすれ。
でも、挑戦しない理由にはならなかった。

面接のため、再び私は北京の地を踏んだ。

広大なキャンパス、歴史あるレンガ造りの校舎、清冽な空気。
その場に立った瞬間、私は確信した。

「ここで人生を変える」

面接は、自分でも驚くほどスムーズだった。
準備してきたエピソードを、熱を込めて語った。
時に笑いを交え、時に真剣に、心からの言葉で伝えた。
まるでスティーブ・ジョブズになったような気持ちだった。


発表は、2週間後。
その間、メールを何度も確認する日々が続いた。

そして――
日本時間の夜11時過ぎ。
ついに、メールが届いた。

合格。しかも、奨学金付き。

思わず立ち寄っていたバーで、バーテンダーに向かって叫んでしまった。
「合格しました!」
しっぽり飲むはずが、乾杯の嵐になった。

別の財団からも奨学金をいただくことになり、学費は実質無料、むしろ生活費にもお釣りが出るほどの支援が決まった。

この経験が教えてくれたのは、未来のすべてを完璧に予測することはできないけれど、**“動き出すことでしか見えない景色がある”**ということだった。

未来を恐れて足を止めるのは、いつだって自分自身。
そして、一歩を踏み出すのもまた、自分自身だ。

第16章:新しい船出 〜 パートナーとともに、中国へ

MBA合格の知らせから間もなく、私はある大きな決断をする。
――結婚だった。

当時付き合っていた彼女とは、遠距離が目前に迫っていた。
彼女はマレーシアへの出向が決まっており、私は中国・北京の大学院へ。
それぞれがキャリアを切り拓くための転機。
普通であれば、「しばらく離れて、またどこかで合流しよう」と話す場面だったかもしれない。

でも、私は違った。
心のどこかでわかっていた。
距離がすべてを変えてしまうこともあるということを。

「一緒に人生を進めていきたい」
そう思えた彼女に、私はプロポーズをした。
そして彼女は、人生の大きな決断を下してくれた。

マレーシア出向の道を手放し、私とともに中国へ行くと。


2020年、8月。
私たちは一緒に北京へ渡った。

私はMBAの学生として、彼女は現地の語学学校で中国語を学ぶ生活。
本人は「私が決めてここに来た」と笑っていたけれど、私はしばらくの間、彼女の夢を奪ってしまったような罪悪感を抱えていた。

中国での暮らしは、思ったよりも穏やかだった。
日常会話に困ることはなく、以前の出向経験のおかげで異文化環境にも慣れていた。
すべてが順調に見えた――最初の1ヶ月までは。

それ以降、私は、人生最大とも言える“壁”にぶつかることになる。


授業が、まったく理解できなかった。

中国トップレベルの名門大学。
集まっているのは、中国国内外の超優秀な学生たちばかり。
特に現地の中国人学生たちは、学力だけでなく、思考力、発信力、そしてスピードが桁違いだった。

どんなに予習復習をしても、毎回の授業で圧倒的な劣等感に苛まれた。
発言しても的を外し、プレゼンでは何も貢献できない。
クラスでビリをとっている感覚――いや、それ以上に、「自分はこの場にいてはいけない人間なのでは」と思うほどだった。

朝、布団から起き上がるのに30分以上かかった。
心が、鉛のように重かった。

でも、そんな私を救ってくれたのは、やはり妻だった。

彼女は日本に残って仕事を続けていた。
それでも、日本時間の夜1時、彼女は毎晩、私が眠りにつくまで電話をしてくれた。
どんなに疲れていても、声だけは届けてくれた。

彼女の存在がなければ、私は1学期で留学を終えていたかもしれない。


少しずつ、自分の中に変化が生まれてきた。

「他人と比べるのは、もうやめよう」
比べるなら、昨日の自分と。
そう腹をくくってから、私は“伸び率”で勝負することにした。

得意だった中国語とプレゼン力を生かして、クラス委員に立候補。
アドミッションのサポート役を引き受け、新入生のサポートにも取り組んだ。

外国人留学生の多くが、注文一つできずに困っている。
そんな彼らに「このメニューはこう読む」「このフレーズを使えば通じるよ」と、一つずつ教えていった。

自分にできることで、クラスに貢献する。

派手ではない。
でも、少しずつ、信頼が芽生えていくのがわかった。

最終発表では、チームのプレゼン資料を仕上げ、メインスピーカーとして登壇した。
その頃には、授業についていけなかった自分が嘘のように、堂々と人前で話せるようになっていた。

ただ、クラスで明るく振る舞っていても、家に帰ると自然と涙が出た。
心と体が一致していなかった。
あの頃は、ギリギリの綱渡りだった。


そんな中、思いがけない出来事が起こる。

香港の財団から依頼され、北京大学の学生向けに“キャリア”をテーマにパネルディスカッションを行うことになったのだ。
英語で自分の経験を語り、それに対して学生から質問が飛んでくる。

驚いたことに、そのセッションは大きな反響を呼び、たくさんの学生たちが「もっと話を聞かせてほしい」と声をかけてくれた。

このとき、私は初めて思った。

「自分の経験や言葉が、誰かの役に立つかもしれない」

それが、私のキャリア支援の原点となった。

第17章:パンデミックと学びの逆風 〜 世界が止まったとき、私は何を選んだか

1学期をなんとか乗り越え、日本へ一時帰国したのは1月半ば。
心身を立て直すための“つかの間の休息”――そんなつもりだった。

ところが、数週間後。
世界はまるで、映画のワンシーンのように、静かに、でも確実に変わっていった。

コロナウイルス。
それは、すべての国境を閉ざし、人と人の距離を引き裂き、かつて当たり前だった日常を奪い去っていった。

大学からは「中国国外にいる学生は、当面、戻ってこないように」と通達が届いた。
第2学期以降は、すべてオンライン授業へと切り替わる。

“世界一流の環境で、現地で学ぶ”という理想は、一瞬で崩れ去った。

正直、落胆した。
現地の教授陣、現地のクラスメイト、現地でのインターン――
それらすべてが、このMBAを選んだ理由だったから。

だけど、その時私はこうも思った。
「変わらないのは、自分がどう学ぶかだ」

どこにいても、どんな形式であっても、成長するかどうかは自分次第。
そう心に決めて、再びPCの画面と向き合う日々が始まった。


オンライン授業は、決して楽ではなかった。
時差もある。通信の不具合もある。
一方的なレクチャーで、対話のない日もある。
それでも、私はあの1学期で培った“自学自習の力”を頼りに、ひとつずつ、学びを積み上げていった。

そんなある日、MBAプログラム内で「交換留学制度」が発表された。

成績上位者から順に、世界各国のビジネススクールを選べるチャンス。
私は、迷わず挑戦した。

結果――150人以上いる学生の中で、私は第8位に選ばれた。

英語ネイティブでもなければ、経営バックグラウンドがあったわけでもない。
でも、「人と比べるのではなく、昨日の自分と比べて進み続ける」
その姿勢が、きっと評価されたのだと思う。

私が選んだのは、アメリカ・コーネル大学。
ニューヨーク州にある名門校で、世界中のビジネスパーソンが憧れる場所だ。

けれど、またしても壁が立ちはだかる。

米中関係の悪化。
そして、コロナ禍での入国制限。
――留学受け入れ、取り消し。

あまりにもあっけない幕切れだった。

でも、不思議と悔しさはなかった。
むしろ、「やれるだけのことはやった」という達成感の方が、強かった。


そして、卒業を前に転職活動を始めた。

世界的に求人が激減していたその時期。
私のような“日本からの留学生”にとっては、厳しい状況だった。
それでも、最終的に私は、希望していたコンサルティングファームから内定をもらうことができた。

世界は止まっていた。
でも、自分の足は止めなかった。
いや、止められなかった。

いつだって、どんな状況であっても、自分の未来は「自分の選択」でしか動かない。
そう、心に刻んだ2年間だった。

第18章:キャリア支援との出会い 〜 誰かの“言葉にならない想い”の通訳者になる

北京での大学院生活の中盤。
それまで“自分のためのキャリア”だけを考えていた私に、新しい視点が芽生え始めていた。

きっかけは、小さなイベントだった。

香港の財団からの依頼で、北京大学の優秀な学生たちに向けたキャリアセッションのパネリストを務めることになった。
テーマは「自分の進路をどう選ぶか」。
ありきたりな話しかできないかもしれない――そんな不安を抱えながら、私は英語でプレゼンをした。

思いのほか、会場からはたくさんの質問が飛んできた。
「どうやって自分の“好き”を見つけたのか?」
「迷ったとき、何を基準に選んできたのか?」

それらの問いにひとつひとつ丁寧に答えていくうちに、気づいたことがある。

「ああ、自分の経験って、誰かの役に立つことがあるんだ」

それまではずっと、「自分はまだ未熟だ」「人に何かを教えられる立場ではない」と思っていた。
でも、悩んでいる人の“言葉にならない気持ち”に寄り添い、少しだけ整理する。
そんな“通訳”のような存在なら、自分にもできるのかもしれないと、初めて思った。


卒業後、日本に戻ってからも、その想いは消えなかった。

そして、もうひとつ、決定的なできごとが起きる。

妻の転職先での出来事だった。
入社からわずか1ヶ月で、彼女は膨大なタスクを任され、適応障害一歩手前の状態にまで追い込まれてしまった。

私は“なんとかしてあげなきゃ”と焦った。
「こうすればうまくいくんじゃない?」
「その上司には、こう伝えてみたら?」

でも、彼女の心にはまったく届かなかった。
むしろ、どんどん苦しませてしまっていた。

ある日、彼女がぽつりとつぶやいた。
「助けてほしいのに、正論だけで返されるのが、一番つらいんだよね」

その瞬間、胸がズキンと痛んだ。

私は、一番近くにいる大切な人を救えなかった。

その悔しさが、私を突き動かした。
「本当の意味で、人を支えられる力がほしい」
そう思って、国家資格キャリアコンサルタントの養成講座に申し込んだ。


学びの中で出会ったのは、「カール・ロジャース」という一人の心理学者の考え方だった。

受容・共感・自己一致
この三つを大切にすることで、人は変わり始める。

私は衝撃を受けた。
それは、まさにあの時の自分に欠けていた要素だったからだ。

誰かの言葉に正しさを返すのではなく、その奥にある感情に耳をすますこと。
理屈ではなく、体温のあるやり取りが、心をほどいていくこと。

これまでの自分が“ロジックで戦う人間”だったとすれば、キャリア支援は“心でつながる人間”への旅の始まりだった。


少しずつ、クライアントを持ち始めた。
最初は学生や若手社会人が多かった。
「やりたいことが見つからない」
「今の仕事に違和感がある」
「転職すべきか、このまま続けるべきか」

そのどれもが、過去の自分とどこか重なっていた。

私は、彼らの言葉に“訳語”をつけるように、じっくりと話を聴いた。
言葉にできなかった気持ちが、少しずつ形になっていくその過程が、たまらなく愛おしかった。


「誰かの“言葉にならない想い”の通訳者になりたい」

それが、私がキャリア支援を続ける理由になった。

そして今、その言葉は自分自身にも向けている。
「自分が何者なのか」
「なぜ、今ここにいるのか」
それを言葉にする旅は、まだ続いている。

第19章:戦略案件と崩れゆく心身 〜 キャリアの加速と、立ち止まる勇気

コンサルティングファームに転職して2年が経った頃。
私は、念願だった「戦略案件」にアサインされた。

それまでの業務とは格段に異なる、ハイプレッシャーなプロジェクト。
業界の未来を左右するような意思決定に関わる提案、タイトなスケジュール、毎日更新されるタスクとKPI。
まさに、"ビジネスの最前線"だった。

朝7時には稼働を開始し、終わるのは深夜1時、2時。
寝ても覚めても、案件のことが頭から離れない。
Slackが鳴れば反射的に心臓が跳ねるようになっていた。

当時の私は、キャリア支援の活動も本業とは別に行っていた。
誰かの人生に関わるこの仕事が好きだったし、やりがいもあった。

けれど、どんなに頑張っても、一日は24時間しかない。

「本業が忙しすぎて、クライアントにベストを尽くせない」
「せっかくの副業なのに、楽しさより義務感が勝ってしまっている」

そんな自分に、罪悪感が募っていった。

同時に、戦略案件では想像以上に“完璧”が求められた。
資料のロジック、言葉の選び方、ストーリーの流れ――
1枚のスライドを仕上げるのに何時間もかけて、何度もダメ出しを受ける。

最初は「自分がまだ未熟なんだ」と思っていた。
でもある日、クライアントの前で声が震えた。
言いたいことが出てこない。
会議中、ただ黙って座っている自分がいた。

「あれ? 今、自分、壊れかけてるかもしれない」

そんな感覚がよぎった。


夜、うまく眠れなくなった。
眠っても途中で何度も目が覚めた。
朝は起き上がるのがつらく、身体が鉛のように重い。
カフェインで無理やり脳を覚まし、笑顔を貼りつけて、またPCに向かう。

それでも、「これは成長のためだから」「もう少し頑張れば慣れるはず」と、自分に言い聞かせ続けた。

けれど、身体と心はもう限界だった。

ある朝、妻が言った。

「もう、休みなよ」

そのひと言に、私は初めて、自分が“止まってもいい”と思えた。


休職を決めたのは、それからすぐのことだった。

1ヶ月。
ほんの1ヶ月だけ、立ち止まることにした。

それなのに、最初の数日は何も手につかなかった。
平日昼間にカフェにいるだけで、「こんなことしてていいのか」と胸がざわついた。
自分が何か“悪いこと”をしているような感覚。

それでも、徐々に、自分のペースを取り戻していった。
本を読み、散歩をし、昼間に空を見上げる。
ただ、それだけのことで、心が少しずつほぐれていった。


そして、ひとつの気づきにたどり着いた。

「自分は、“戦う”ことばかりを人生に取り入れてきたんだな」

負けないように。
追いつくように。
必要とされるように。

そのために、走り続けてきた。

でも、本当は――
“立ち止まる力”もまた、人生には必要だった。

自分の声を聞き、自分の感情と向き合い、これからの進み方を見つめ直す。
それができた1ヶ月は、私の人生にとって、かけがえのない時間になった。

第20章:重ねた問いと、これからの道

〜 自分らしく、徹底的に生きるために 〜

これまで、いくつの“問い”を自分に投げかけてきただろう。
「自分は何者か?」
「なぜ、それをやりたいのか?」
「このままで後悔しないのか?」

そして今も、その問いは続いている。
問いは、私にとって“進み続けるための燃料”だ。

自分の人生に納得したい。
他人の評価ではなく、自分の感覚で「これでいい」と思える生き方をしたい。

その思いだけは、昔から一度も変わっていない。


休職を経て、私は職場に復帰した。
まるで何もなかったかのように、以前と同じように働いている。

でも、心の奥では、もう同じではない。

以前は、“うまくやること”に必死だった。
でも今は、“誠実にやること”の方が、ずっと大事だと感じている。

完璧でなくていい。
早くなくていい。
自分の言葉で、自分の速度で、目の前の人と向き合うこと。
それが、今の私の軸だ。


複業として続けてきたキャリア支援も、今では多くの方に必要としていただけるようになった。
学生、転職希望者、子育てとキャリアの両立に悩む親たち――
私の元には、いろんな人生の節目に立つ人たちが集まってくる。

彼らの話を聴くと、かつての自分が重なる瞬間がある。
だからこそ私は、どんな“モヤモヤ”にも真摯に向き合いたいと思う。
それはただの悩みではなく、まだ言葉になっていない“願い”だから。

キャリアとは、生き方そのものだ。
私が大切にしているのは、「どう働くか」ではなく、「どう生きたいか」。


最近、よくこんなことを言われる。

「もう独立したら?」

たしかに、今の延長線上には、独立や起業という選択肢が見えている。
それでも私は、まだ決断をしていない。

それは、「今の自分をきちんと味わいたい」と思っているからだ。

働きながら、副業をしながら、家庭を持ちながら、
“ありたい自分”を日々アップデートしていく。
そんな「現在進行形の人生」が、今は心地いい。


この物語に終わりはない。
むしろ、ここからが始まりかもしれない。

私はまだ、人生の途中だ。
まだまだわからないこともあるし、たぶんまた転ぶこともある。
でもそのたびに、ちゃんと“問い直す勇気”を持っていたい。

そしてこれからも、誰かの人生の節目に立ち会える存在でありたい。
その人が“まだ言葉になっていない想い”を見つけられるように、そっと手を添えられるような、そんな存在で。


「自分らしく、徹底的に生きる」

この言葉は、今の私の指針であり、願いでもある。

どんな場所にいても、どんな肩書きであっても、
私は、私を諦めない。

あとがき

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。

この自叙伝は、順風満帆な人生の物語ではありません。
迷い、挫折し、時に自分を見失いながら、それでも“自分らしく生きる”というテーマに向き合い続けてきた記録です。

私はこれまで、「自分とは何か」「どう生きたいか」という問いを幾度となく自分に投げかけてきました。
海外での生活、病気、誹謗中傷、キャリアの選択、家族との関係、愛する人との未来――
その一つひとつが、私に「本当の意味で生きるとは何か?」という問いを深く投げかけてくれました。

そして気づいたのです。
問いは、痛みや不安の中から生まれるけれど、それを「言葉にすること」「行動に変えること」が人生を変える力になるのだと。

今、私は“誰かの問い”に寄り添う仕事をしています。
言葉にならないモヤモヤを、「こういうことだったのか」と腑に落ちる形に変える。
それが、私の人生の役割なのかもしれないと感じています。

プロフィール

森川 貴之(もりかわ たかゆき)

可能性プロデューサー / ライフ・キャリアコーチ/ビジネスコンサルタント
国家資格キャリアコンサルタント/CTI認定応用トレーニング修了
清華大学MBA修了

静岡県出身。幼少期から「なんで自分はここにいるんだろう?」という問いを抱えながら成長。
学生時代にバックパックで東南アジアを放浪し、カナダでの留学を経て、異文化の中で生きることの意味を学ぶ。
新卒では日系大手企業に入社し、20代で最年少ドイツ駐在に抜擢されるも、誹謗中傷や病気を経て「本当の自分の人生ってなんだ?」という問いに再び立ち返る。

中国MBA留学中には、劣等感と孤独の中で自らを見つめ直す時間を過ごし、そこで対人支援と出会う。
以後、コンサル勤務の傍ら個人事業主としてクライアントに伴走し続け、個人・法人双方で支援を展開中。

現在はロジックとエモーションの両輪で、“言葉にならない想い”を言語化し、“まだ見ぬ可能性”に火を灯すコーチとして活動中。

あなたへのメッセージ

もし今、あなたが「このままでいいのかな」と感じているのだとしたら、
もし、「やりたいことがあるような気がするけれど、はっきりしない」と悩んでいるのなら、
そのモヤモヤは、あなたの内側にある“本音”のサインかもしれません。

私はこれまで、何度も自分に問いを投げかけ、傷つきながらも立ち上がってきました。
「こんな自分でも、変われた」
そう信じられるからこそ、今、本気で変わりたいあなたと向き合う準備ができています。

私のコーチングは、答えを“与える”ものではありません。
あなたの中にすでにある“本当の声”を、引き出すための旅に一緒に出ること。
その旅の中で、あなたが気づき、選び、動き出す――そのプロセスに、私は徹底的に寄り添います。

ロジカルな整理も、感情の揺らぎも、両方大切にする。
コンフォートゾーンから飛び出すその瞬間に、ちゃんと“ともにいる”。
強さだけじゃなく、弱さも一緒に抱えながら進む。

そして最後には、「自分らしく、徹底的に生きている」と、あなたが胸を張れるように。

あなたがもし、今この文章を読んでくれているのだとしたら。
もう、人生を変える準備はきっと整っています。

いつか、どこかでお会いできることを、心から楽しみにしています。

あなたの“まだ言葉になっていない想い”、一緒に探してみませんか?

もし、今のままの人生にどこか引っかかりを感じているなら。
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一度、話してみませんか?

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